「せかいのつくりかた−自己と世界の関係をめぐって」
大友 恵理
今自分が捉えている現実は果たして他人の認識しているそれと全く同じだろうか?唯一無二のものなのだろうか?
心理学に「心的現実」という言葉があり、個人の主観に基づいて認識された現実世界を指す。同じ事実であっても、状況をどう解釈しどのように捉えるかによって全く異なる現実が実感されている可能性がある。逆に考えてみれば、心の持ち方一つで世界が全く別のものとして立ち上がってくるということ。世界の有り様は私たちの内面を映し出す鏡でもあるのだ。唯一の現実であるはずの世界は、それぞれの内面と結びつき、ひとつひとつの異なる現実として眼前に広がっている。
この脳内リアリティについての命題を解き明かすことを展覧会のテーマとして長らく考察してきた。リアリティはどこから来るのか?この展覧会を作り上げるにあたって、一つのことを目指しているにも関わらず、二つの側面があって、多少分裂していた。たぶん「せかい」と「つくりかた」という二つに。前者は「リアル」、後者は「架空/つくりもの/クリエイティビティ」と置き換えられる。やはり字面の上でもやや乖離している。当初は命題を
単語2つに集約して「Imaginary Reality(想像上の現実)」という奇妙なタイトルをつけていたが、途中で改題し「せかいのつくりかた」とした。芸術家の作品世界を示唆すると同時に芸術家以外のあらゆる人々にも及ぶように。
一方、「つくりかた」つまり表現者の創造行為を描写した文章が、本展のもう一つのカギとなっている。
芸術家が<せかい>を捉える。必ずしも目に見えることだけでなく、内面にあって外部にないもの、外部にあるもの、内と外に生じるズレや違和感。内面に広がる景色。それを明らかにしたいという衝動、居心地の悪さの解消、もやもやした霧がかった感覚を考察し、整理し、形にする。見えないものを想像しどうにか探して、そこにはない何かの手がかりを何とか自分で発見し、想像しながら、たどり着き、達成する。目の前に現れる何百もの瞬間を選択し、つないでいく。
自分の中で長らくこの二つの文章を上手く繋げられず、まとめ方に悩んでいた。しかしそもそも芸術や創造にまつわる重要なポイントと思えるからこそ命題に選んだ訳で、展示やアーティストとの議論に矛盾もなく、むしろ加速的にアイデアやビジョンが共有されてきた。芸術や作品がまず先ある。アーティストたちの言葉の中に答えはあった。リアリティの源は想像力の強度にあった。全く目の前にある答えが見えてなかったとしか言いようがない。
アーティストの言葉を引用しよう;
「『記憶の場所
The Site of Memory』記憶の場所というそこにはない何かの手がかりをやっと自分で発見して、想像しながら、たどり着き、達成する、その必死に探し求めるプロセスこそがアートと重なるところだろうし、その見えないものを想像しどうにか探さなければならないというリアリティある状況に、読む者や見る者を連れて行けるかが作品へと変化するポイントだと思う。歴史や伝統的な強度かもしれないし、日常的には起こらないこととしての強度かもしれないし、見た目にはわかりやすいけどそれを入口に連れて行く強度かもしれないし、方法はいくつもあると思う。」「上のトニ・モリスンもそうだし、さっきのメールに富田くんが瞬間瞬間、その時のその場に現れる自分について書いていたけど、ここにないものを総動員して想像して、このまさに今ここというリアリティ(漠然とした現実ではなく)を実感して、ライブを確かめることで、せかいはつくられるんじゃないかな。」(中山)
ここで3人のアーティストについて触れたいと思う。
蔦谷楽はこれまで、映像、絵画、インスタレーション等、様々なメディアを使い、自身が身を置く現実に対して世界を開いていくような作品を手がけてきた。近年は、自身の感情を突き動かす主題を元に1日1ページ進むマンガ作品に取り組んでいる。ファインアートの目線で捉えれば、物語を伴うドローイングの連作と言えるのだが、一般的に想起されるマンガの形式にとらわれず、自由でユニークなスタイルをみせる。例えば、4コママンガ形式で進んでいた作品が、途中で突如画面にはさみが入れられて立体化し、画面が開いたり回るような動きが加えられるなど、自在に変化する。彼女はそこで、毎日の変化を受け入れて展開していくこと、画像や画面が運動していく感覚、観る人の想像力を超えていくことを追求している。マンガでも映像作品でも絵画でもない、読んで感じるトランスフォーム彫刻の連作といったところだろうか。作品は1日1ページがウェブ上で公開され、毎日の読者の反応や自分自身の心の動きを汲みながら物語を進展させることも試みられている。最新作「それは私が生涯わすれられない瞬間であった」は、原色に近い色と抑制の利いた描写でもって、どこまで感情を高めていけるかという所に焦点を当てている。
展覧会では、この作品について、その1枚1枚の物語に寄せられた感情や物語自体を再考した上で、それぞれを彫刻作品に変化させ発展させた物語世界を展示する。
富田俊明の作品は、自らのうちに起こる意識・無意識の現象を丹念に捉え、分析し、心の世界を探求することが核となっている。夢や他者との対話からあらわれてくるイメージを、精神分析やフィールドワーク、対話やワークショップ等の手法を独自な解釈で援用しながら追跡し、少しずつ時間をかけて丁寧に紐解いてゆく。作品の帰結点が見えた時、その作品は完成する。イメージの意味は明らかにされ、たどった道は物語を帯びて作品の姿となる。「ハートマウンテン」(2010)は、ある山で富田が巡礼として過ごした2000年の夏の物語を、2002年にデンマークのある芸術高校で話して聴かせたことから始まる。富田の話は参加者の一人にインスピレーションを与え、一枚の絵を描かせた。その後10年の間、富田と描き手が何度か再会する中で、物語は二人の間で忘却、想起、更新され、思いがけない絵の謎が解かれていった。言葉やイメージが積み重ねられ、それぞれの奥深く眠っている記憶や潜在意識と結びついて、新たな物語へ連なっていく。作品を鑑賞し共有した人々からそのまた誰かへと恐らく作家の知らないところで無限に広がってゆくことだろう。現在、彼は夢で得たイメージと取り組んでおり、本展覧会では、そのイメージをたどる過程の一つとして、彼が近年探求している食や味覚や触覚にまつわる試みが提示される。
中山和也の作品は、いたずらを仕掛けられたような印象を受ける。“いたずら”とは、すなわち、不意打ちを食らったようなタイミングに驚きと好奇心とユーモア、そしていたずらを仕掛けられるであろう人々の存在やそのリアクションなどを想起せずにはいられないのである。あるいは「中山和也事件」と称されるように、いつもの日常が一瞬、少しだけいつもと異なる様相を見せて、ゆっくりとまた元の日常へ戻ってゆく。そのような体験をもたらすのが彼の作品である。
彼はいつも作品を発表直前にセットアップする。作品を前もって準備せず、展覧会場や近辺のどこかに仕込まれていたり、何かが起こったりと、今ここで起こることに注目し、展覧会場の現場感覚を作品にすることを作品制作のルールと自らに課している。だから今回もこの文章を書いている時点では彼が何をしてくれるのか白紙である。何が起きるだろうかと会場と過去の事件を見比べながら当日まで思いめぐらせることとなる。
ようやく私たちの<せかい>が形になる。このテキストが掲載されている「トランスフォームカタログ」。そして横浜の小さな古ビルに立ち上がる展覧会。3つのせかいはパラレルに存在し独立していながら一つの場所に重なり合う。想像は創造となり奥底に潜むものが形を帯びて現れる。
せかいは完成されたものや場所ではなく、常に自身の前に出現し続ける。せかいは生まれ続ける。
2012年3月
(本展企画キュレーター)
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